新しいかたち

往復書簡九通目

居間から書斎を望む 


前略 奥村くみさま

先日はありがとうございました。早いもので、萩原家住宅でお会いしてから二週間が経とうとしています。
奥村さんのリードで終始リラックスして話すことができ、本当に楽しい時間でした。たった一日限りのイベント、しかも少人数制なんてコロナになる前には考えてもみなかった事ですが、終わってみるとなんともいえない充足感。萩原家住宅のノスタルジックな空間の中、そこでのひと時を共に過ごした人達と、なにか心が通じ合ったような気がします。以前、奥村さんからのお手紙で「縁」のお話がありました。アートアドバイザーという仕事を自ら立ち上げ、コロナ渦の中でも立ち止まらず今年は”こぉと“を開設した奥村さん。僭越ながら、勝手に同士のような力強い存在と思い込み、勇気づけられています。私は奥村さんにお会いできて本当に良かった。

HouseからHomeへ。どうやって自分の空間に変化させていくのか話しましたね。暮らしを彩り自分にとって愉しく心地よい空間にしていく。奥村さんはアート、私はリネンを取り入れています。でも、HouseからHomeへ変化させるエレメントは十人十色。アートを飾ったり、家具の配置を変えたり、柔らかなリネンを取り入れたりすることが、心地よさを再発見するきっかけとなれば嬉しいです。

人生は晴れの日もあれば雨の日もあります。私にとって30代半ばから後半は、それまでに経験したことのない悲しく辛い時期でした。丁度今の会社を設立した直後の時期ですが、収入も不安定で、周囲からは会社をたたんで一度実家に帰ったらと言われていました。でもその時私の母は「実家に戻って来ることはいつでもできる。あなたならまだできるんじゃないの?」と。甘やかさず自分の娘を信じてくれました。そんな時代、一人の自宅では、部屋を清潔に保ち、洗濯をし、ベッドリネンを整え、きちんと眠る努力をし、自炊をしていました。「時が解決する」とはよく言われる言葉ですが、その「時」の過ごし方の根底には毎日の暮らしがあります。リネンはいつも私の傍らで、知らぬ間に、気持ちを穏やかなものへと導いてくれていました。今考えてみるとそれまで美しく部屋を飾るために存在してたリネンが、本当の意味で日々の生活を支えてくれるエレメントになったのはこの時期だったような気がします。

萩原家では管理人さんがお庭の紫陽花を活けて迎えてくださいました。この紫陽花、当日は玄関ホール正面の窓を背にかざることに。フランク・ロイド・ライトっぽさを感じさせる遠藤新の窓枠の先に、まさにその紫陽花が慈雨を受けひっそりと美しく咲いていました。実はお花屋さんで買った大輪の紫陽花をひとつ用意していたのですが、そこで生きている本物の紫陽花のちからには遠く及ばず、私のアトリエを彩る役にそっと回ってもらいました。

今回お借りした萩原家住宅。居間や子供部屋だった空間にリネンを置き、音楽室をトークの場としました。ゆとりある席の配置をつくるため家具やピアノを動かすこと、オーナの萩原淑子さんに快くご了解いただきました。家具だけでなく思い出の品々に至るまで、全て元通りの位置に戻すのが、我がリネンアンドデコールチームのミッション。各部屋のすべての箇所の写真をとって図面にマークし、そこにそのままの形で戻す作業が粛々と行われました。今回話に出たウッディアレン監督の「インテリア」に登場するデコレーターのイヴか!と思わせるくらいのこだわり。スタッフみんなでイヴ並みだね、と大笑い。萩原家住宅はスタッフみんなの思い出の場所になったようです。

いろいろな方々からメッセージも頂きました。友人の別荘が遠藤新が建てたものだとか、ご主人が自由学園のご出身で遠藤新やフランク・ロイド・ライトの建物に親しんでらしたとか、ご子息の建築家遠藤楽さんご家族とお付き合いがあるとか、みなさんそれぞれ思い入れがあったようです。出版社に連絡し配らせてもらった雑誌「住宅建築」のコピー。その号の他のページには、建築家の目線でいかに心を配りながら建物を改修したのか、ということも書かれていました。長く残る建築というものは目に見える建物だけでなく、人々の心の奥に思い出として受け継がれていきます。HouseからHomeへ。建築家もそんな事を考えている人なのかもしれません。

6月に入り明日香に頭が切り替わりました。どんなライブトークになるか。“こぉと”でも再び、私達の静かな情熱がお伝えできますように。

ふと思い出したのですが、奈良のとあるスピーカーやさんが以前から少し気になっています。スピーカーは詳しくはないのですが、元々お寿司屋さんだった建物を自分たちでリノベし、理想の音響環境を目指したスペースを作り、今後も時間をかけて使い方も空間もゆるやかに変化させ育てていくそうです。友人のベーシストが、あるピアニストさんと作ったアルバム「EL RETRATADOR」は私のお気に入りですが、そのピアニストさんは時々そこでライブをしていました。このご時世、集まって音楽を聴く、というのは滅多に無い事に。でもいつか二人の演奏をここで聞いてみたいです。

明日香のこぉとは、作品に向き合い、愛でるため、自然が生み出す音のみにされたとお聞きました。以前Instagramで「アマンキラに滞在した時に感じた“音なき音”こそ“最高の音”である」と書かれていましたね。いつも、ちょっと先の幹線道路の救急車や近所を走る車、冷蔵庫が作る音が通奏低音のように聞こえる環境に住んでいる私。そういったノイズから離れることは、心地よい音楽を聴くのにもまして、最高の贅沢です。
そんな空間で、奥村さんの愛するアートと出会うこと、いまから本当に楽しみです。

草々
2021年6月4日

リネンアンドデコール 菊川博子

 

奥村くみ プロフィール

菊川博子 プロフィール

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